密教辞典

密教(みっきょう)とは、「秘密の教え」を意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、「秘密仏教」の略称とも言われる。中国語圏では一般に「密宗」(ミイゾン)という。

かつての日本では、密教といえば空海を開祖とする真言宗のいわゆる東密や、密教を導入した天台宗での台密を指したが、インドやチベットにおける同種の仏教思想の存在が認知・紹介されるに伴い、現代ではそれらも合わせて密教と総称するようになっている。今日の仏教学は一般に密教を「後期大乗」に含めるが、後期大乗と密教とを区別しようとする立場もある[出 5]。江戸後期の日本で確立した分類である雑密・純密をそれぞれ大まかにインド密教の前期・中期に対応させることが多い。
真言宗においては、伝統的には、「密教」とは顕教と対比されるところの教えであるとされる[出 6]。空海は『請来目録』や『弁顕密二教論』の中で、顕教と密教の二教を弁別し、「密蔵」の語を用いて密教の概念を説明した。インドの後期大乗仏教の教学(顕教)と後期密教とを継承したチベット仏教においても、大乗を波羅蜜乗(顕教)と真言乗(密教)とに分けるという形で顕密の教えが説かれている。密教の他の用語としては金剛乗(vajrayāna、ヴァジュラヤーナ)、真言乗(mantrayāna、マントラヤーナ)などとも称される。
「金剛」という呼称は本来、降魔成道は金剛座で成されるという大乗仏教一般の通説から、密教成立以前にすでに用いられていた述語だが、『金剛頂経』系の経典を奉じる僧団が自らを「金剛乗」と称したことが金剛乗の始まりである。これは声聞・縁覚を忌む大乗仏教の宗勢拡大に対し、求法のイメージの一新を図るべく、声聞乗に替えて金剛乗の名称を用いた動きと捉えられるが、現世利益重視の傾向とともに、小乗 (hīnayāna : 狭義の声聞乗・縁覚乗)、大乗 (mahāyāna : 菩薩乗を含む)と対比して第三の優れた教えであることを称揚して用いるケースも出現した[注 1]。
チベット僧は顕教に対する自分たちの密教を、チベット語でガクルグ(真言流)とかサンガク(秘密真言)と呼称し、欧文脈ではその同義語としてサンスクリットの「ヴァジュラヤーナ」を用いることが多い。このため、金剛乗(ヴァジュラヤーナ)は拡大解釈により密教の総称として扱われる場合もあり、欧米などでも文献中に仏教用語として登場する。
また、欧米の研究者はとりわけ9世紀以降の後期密教をタントラ仏教 (Tantric Buddhism) と呼ぶことが多い。これは、8世紀以後に成立した密教経典がスートラではなくタントラ[2]と名づけられていることによる。また、欧米系の東洋学や宗教学において、殊に6世紀以降のインドの諸宗教に広く見られる特定の宗教文化・様式・傾向等をタントリズムとして括り、仏教の中の密教を「仏教のタントリズム」と捉えることにも関連している。
概説[編集]
一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かって広く教義を言葉や文字で説くのに対して、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する。この点に密教の特徴がある。 また別の面からは、密教とは言語では表現できない「仏の覚り」それ自体を伝えるものであり、「仏の覚り」とその方法が凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」であるということが密教の密教たる所以だともいう。これらとは異なり、密教の「密」とは「顕」に対する「密」ではなく、ソグド語で「日、太陽」(七曜の内の日曜)を意味する言葉である「ミール」 (Mir) を漢字で「密、蜜」と音訳したものとする説もある。
本来、密教は「文字によらない教え」を指し、先に述べたように顕教では経典類の文字によって全ての信者に教えが開かれているのに対し密教は、空海の詩文集『性霊集』で「それ曼荼羅の深法、諸仏の秘印は、談説に時あり、流伝は機[4]にとどまる。恵果大師が、伝授の方法を説きたまえり。末葉に、伝うる者敢えて三昧耶戒に違反してはならないと。与奪は[5]我(空海)が意志に非ず、密教の教えを得るか否かはきみの情(こころ)にかかれり。ただ、手を握りて印を結んで、誓いを立てて契約し、口に伝えて、心に授けるのみ。」[6]と述べているように、「阿字観」等に代表される不生の三昧(瞑想)を重んじ、曼荼羅や法具類、灌頂の儀式を伴う「印信」[7]や「三昧耶形」等の象徴的な教えを旨とし、それを授かった者以外には示してはならないとされた[8]。これは、灌頂が儀式の中で段階的に、行いを重視する「小乗戒」[9]と、心のあり方を重視する「大乗戒」[10]と、中期密教に始まる、象徴を理解するための基礎の「三昧耶戒」と、それに加えて無上瑜伽タントラでは、後期密教における仏智を軸とする発展的な三昧耶戒である「無上瑜伽戒」[13]を与え、心身における全的覚醒を促し、密教に必要な諸々の戒律を参加者に与えることにより、その対象を限定した上で、「秘密とされる灌頂の授者を生きたまま(即身)諸仏の曼荼羅に生じせしめる」からである。
それゆえ弘法大師空海は、密教が顕教と異なる点を『弁顕密二教論』の中で「密教の三原則」として以下のように挙げている。
法身説法(法身は、自ら説法している。)
果分可説(仏道の結果である覚りは、説くことができる。)
即身成仏(この身このままで、仏となることができる。)
いわゆるそれまでの小乗仏教(声聞・縁覚)が成仏を否定して阿羅漢の果を説き、さらには大乗仏教が女人成仏を否定し、無限の時間(三阿僧祇劫)を費やすことによる成仏を説くのに対して、密教は老若男女を問わず今世(この世)における成仏である「即身成仏」を説いたことによって、画期的な仏教の教えとして当時は驚きをもって迎え入れられた。この点での中期密教と後期密教との差異はというと、中期密教は出家成仏を建前とするのに対して、後期密教は仏智を得ることができれば出家や在家に関係なく成仏するとしている点である。
密教においては、師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、その教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶(しゃびょう)の如し」といい、受者である弟子に対して阿闍梨(教師)の称号と資格を与えるものである。いわゆるインド密教を継承したチベット密教がかつて一般に「ラマ教」と称されたのは、チベット密教では師資相承における個別の伝承である血脈[17]を特に重んじ、自身の「根本ラマ」(師僧)に対して献身的に帰依するという特徴を捉えたものである。
インド密教の歴史[編集]
概略を説明すると、密教成立の背景には、インド仏教後期においてヒンドゥー教の隆盛によって仏教が圧迫された社会情勢がある。ヒンドゥー教の要素を仏教に取り込むことでインド仏教の再興を図ったのが密教である。しかし結果的には、インド仏教の密教化はヒンドゥー教の隆盛の前にインド仏教の衰退を防げなかった。
西アジアからのイスラーム勢力が北インドを席巻しつつあった時代にあって、やがてインド仏教は、インド北部から侵攻してきたイスラーム教徒政権(デリー・スルターン朝)とインド南部のヒンドゥー教徒政権との政治・外交上の挟撃に遭うことになる。当時のイスラーム教徒から偶像崇拝や呪術要素を理由として武力的な弾圧を受け、12世紀におけるインド密教の最後の砦であったヴィクラマシーラ大僧院の炎上をもって、インドにおける密教は最終段階のインド仏教として歴史的には消滅に追い込まれる結果になった。
密教以前[編集]
パーリ仏典の長部・『梵網経』には、迷信的な呪術や様々な世間的な知識を「無益徒労の明」に挙げて否定する箇所があり、原始経典では比丘が呪術を行うことは禁じられていたが、律蔵においては(世俗や外道で唱えられていた)「治歯呪」や「治毒呪」[出 9][出 10][19] [20] [出 11] [21]といった護身のための呪文(護呪)は許容されていた。そうした特例のひとつに、比丘が遊行の折に毒蛇を避けるための防蛇呪がある(これが大乗仏教において発展してできたのが初期密教の『孔雀王呪経』とされる[出 13])。これは律蔵の「小事犍度」のほか様々な経律の典籍にあらわれ、出家者の間で広く用いられていたことが窺われる。本来は現世利益的な民間信仰の呪文とは目的を異にするもので、蛇に咬まれないためには蛇に対する慈悲の心をもたねばならないという趣旨の偈頌のごときものであったとも考えられるが、社会における民衆への仏教の普及に伴って次第に呪術的な呪文へと転じていったのでないか、と密教研究者の宮坂宥勝は考察している。
また意味の不明瞭な呪文ではなく、たとえば森で修行をするにあたって(木霊の妨害など)様々な障害を防ぐために慈経を唱える、アングリマーラ経を唱えることで安産を願う[出 16]など、ブッダによって説かれた経典を唱えることで真実語(sacca-vacana)によって祝福するという習慣が存在する。 こうした祝福や護身のために、あたかも呪文のように経典を読誦する行為は、パーリ仏教系統では「パリッタ(paritta 護経、護呪)」と称され、現代のスリランカや東南アジアの上座部仏教でも数々のパリッタが読誦されている。
初期密教[編集]
呪術的な要素が仏教に取り入れられた段階で形成されていった初期密教(雑密)は、特に体系化されたものではなく、祭祀宗教であるバラモン教のマントラに影響を受けて各仏尊の真言・陀羅尼を唱えることで現世利益を心願成就するものであった。当初は「密教経典」なるものがあったわけではなく、大乗経典に咒や陀羅尼が説かれていたのに始まる。大乗仏教の代表的な宗派である禅宗では「大悲心陀羅尼」・「消災妙吉祥陀羅尼」等々、日本でも数多くの陀羅尼を唱えることで知られているが、中でも最も長い陀羅尼として有名な「楞厳呪」(りょうごんしゅ)は大乗仏典の『大仏頂首楞厳経』に説かれる陀羅尼であり、これが密教に伝わり陀羅尼(ダーラニー)が女性名詞であるところから仏母となって「胎蔵界曼荼羅」にも描かれ、日本密教では「白傘蓋仏頂」と呼ばれマイナーな存在ではあるが、チベット密教では多面多臂の恐ろしい憤怒相の仏母である「大白傘蓋仏母」として寺院の守護者として祀られるようになった。ちなみに禅宗でもチベット密教でも、この陀羅尼を紙に書いてお守りとするが、中国禅では出家僧の「女人避けのお守り」ともされている。
中期密教
新興のヒンドゥー教に対抗できるように、本格的な仏教として密教の理論体系化が試みられて中期密教が確立した。中期密教では、世尊 (Bhagavān) としての釈尊が説法する形式をとる大乗経典とは異なり、別名を大日如来という大毘盧遮那仏 (Mahāvairocana) が説法する形をとる密教経典が編纂されていった。『大日経』、『初会金剛頂経』 (Sarvatathāgatatattvasaṃgraha) やその註釈書が成立すると、多様な仏尊を擁する密教の世界観を示す曼荼羅が誕生し、一切如来[23]からあらゆる諸尊が生み出されるという形で、密教における仏尊の階層化・体系化が進んでいった。
中期密教は僧侶向けに複雑化した仏教体系となった一方で、却ってインドの大衆層への普及・浸透ができず、日常祭祀や民間信仰に重点を置いた大衆重視のヒンドゥー教の隆盛・拡大という潮流を結果的には変えられなかった。そのため、インドでのヒンドゥー教の隆盛に対抗するため、シヴァを倒す降三世明王やガネーシャを踏むマハーカーラ(大黒天)をはじめとして、仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊が登場した。
後期密教
中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した無上瑜伽タントラの経典類を中心とする後期密教が登場した。後期密教では仏性の原理の追求が図られ、また、それに伴って法身普賢や金剛薩埵、持金剛仏が最勝本初仏として最も尊崇されることになった。
また、インドにおいてヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す無上瑜伽の行も無上瑜伽タントラと呼ばれる後期密教の特徴である。男性名詞であるため男尊として表される方便と、女性名詞であるため女尊として表される智慧が交わることによって生じる、密教における不二智[25]を象徴的に表す「歓喜仏」も多数登場した。無上瑜伽タントラの理解が分かれていた初期の段階では、修行者である瑜伽行者がしばしばタントラに書かれていることを文字通りに解釈し、あるいは象徴的な意味を持つ諸尊の交合の姿から発想して、女尊との性的瑜伽を実際の性行為として実行することがあったとされる。そうした性的実践が後期密教にどの時期にいかなる経緯で導入されていったかについてはいくつかの説があるが、仏教学者の津田真一は後期密教の性的要素の淵源として、性的儀礼を伴う「尸林の宗教」という中世インドの土着宗教の存在を仮定した。後にチベットでジョルと呼ばれて非難されることになる性的実践は主に在家の密教行者によって行われていたとも考えられているが、出家教団においてはタントラの中の過激な文言や性的要素をそのまま受け容れることができないため、譬喩として穏当なものに解釈する必要が生じた。しかし、時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてそれを強要する破戒行為にまで及ぶこともあったことから、インドの仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教(上座部仏教)や、大乗仏教への回帰もみられた。それゆえ、僧侶の破戒に対する批判を受けて、無上瑜伽の実践もまた実際の性行為ではなく、象徴を旨とする生理的瑜伽行のクンダリニー・ヨーガによる瞑想へと正式に移行する動きも生じた[27]。これらの諸問題はそのままチベット仏教へと引き継がれ、後に解決をみることになった。
一方、瑜伽行は顕教ではすでに形骸化して名称のみであったが、密教においては内的瑜伽や生理的な修道方法が探究され、既に中期密教で説かれた「五相成身観」や「阿字観」、「五輪観」に始まり、更には脈管(梵:ナーディー、蔵:ツァ)や風(梵:プラーナ、蔵:ルン)といった概念で構成される神秘的生理学説を前提とした、呼吸法やプラーナの制御を伴う瑜伽行の諸技法が発達した。とりわけ母タントラ系の密教では、下半身に生じた楽を、身体の中央を貫く中脈(梵:アヴァドゥーティー、蔵:ウマ)にて上昇させることによって歓喜を生じ、空性を大楽として体験する瑜伽行が説かれるようになった。後期密教の生理的瑜伽の発展した形は、チベット密教の「究竟次第」(蔵:ゾクリム)と呼ばれる修道階梯などにみることができる。
さらには、当時の政治社会情勢から、イスラム勢力の侵攻によるインド仏教の崩壊が予見されていたため、最後の密教経典である時輪タントラ(カーラチャクラ)の中でイスラムの隆盛とインド仏教の崩壊、インド仏教復興までの期間(末法時代)は密教によってのみ往来が可能とされる秘密の仏教国土・理想郷シャンバラの概念、シャンバラの第32代の王となるルドラ・チャクリン(転輪聖王)、ルドラ・チャクリンによる侵略者(イスラム教徒)への反撃、ルドラ・チャクリンが最終戦争で悪の王とその支持者を破壊する予言、そして未来におけるインド仏教の復興、地上における秩序の回復、世界の調和と平和の到来、等が説かれた。
インド北部におけるイスラム勢力の侵攻・破壊活動によってインドでは密教を含む仏教は途絶したが、さらに発展した後期密教の体系は今日もチベット密教の中に見ることができる。
日本の密教
密教の伝来
日本で密教が公の場において初めて紹介されたのは、唐から帰国した伝教大師最澄によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せた。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していたわけではなかった。
よって、本格的に日本で紹介されることになるのは、唐における密教の拠点であった青龍寺において密教を本格的に修学した弘法大師空海が806年に日本に帰国してからであるとされる。 あるいは、空海に後れをとるまいと唐に留学し密教を学んだ円行、円仁(慈覚大師)、恵運、円珍(智証大師)、宗叡らの活躍も挙げられることがある。
日本に伝わったのは中期密教であり、唐代には儒教の影響も強かったので後期密教はタントラ教が性道徳に反するとして唐では受け入れられなかったという説があるが、「サンガク・ニンマ」をチベットに初めて伝え、ニンマ派からチベット仏教の祖と仰がれるグル・パドマサンバヴァ[31]は、真言宗の開祖である空海と同時代の人物であること。空海の師僧である恵果阿闍梨の監修による『大悲胎蔵曼荼羅』には、既にニンマ派の「八大ヘールカ」に相当すると見られる尊挌が描かれている点や、後期密教の代表的な守護尊(イダム)の一つであるプルパ金剛(ヴァジュラ・キラヤ、漢名;普巴金剛)の印相と真言とが寛平法皇の古次第である『小僧次第』等に散見する点。宋代に伝わった臨済宗の『常用陀羅尼』の中には後期密教で有名なインドの成就者サラハの真言[33]が含まれている点など、チベット密教の解明と共に後期密教の伝播に関する説は見直されてきている。
江戸時代には、日本の戒律復興運動に併せて、清代に行なわれていた中国密教の「四大法」等が日本にもたらされた。禅密双修であった黄檗宗の開祖、隠元隆琦による「千手千眼観音法」の伝来は、鉄眼版の大蔵経に実修用の大型図像を残し、黄檗宗・宝蔵院では今も当時の図像や印信等を伝えている。天台宗の豪潮律師は長崎の出島で中国僧から直接、中国密教と「出家戒」や、大系的な戒律である小乘戒・大乘戒・三昧耶戒を授かり、時の光格天皇の師として尊敬を集めるとともに、南海の龍と呼ばれた尾張・大納言齊朝候の庇護を受け、尾張と江戸で「準提法」(准胝観音法)を広めて多くの弟子を養成した。豪潮の残した資料の一つ『準提懺摩法 全』は明代の中国の資料と内容が一致する。また、真言律宗も中国から直接「出家戒」を伝えて、開祖である興正菩薩叡尊以来の悲願を果たして宗風を盛んにした。この時期、戒律復興運動で有名な人物としては、「如法真言律」を提唱し、生涯において三十数万人の僧俗に灌頂と授戒を行なった霊雲寺の浄厳覚彦と、「正法律」を唱えた禅密双修の慈雲尊者が挙げられる。
密教の宗派

日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなる。熊野で修行中の山伏。
日本の伝統的な宗派としては、空海が唐の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗(即身成仏と鎮護国家を二大テーゼとしている)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗の継承する密教が日本密教に分類される。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっている。真言宗の密教は東密と呼ばれ、日本天台宗の密教は台密とも呼ばれる。東密とは「東寺(教王護国寺)の密教」、台密は「天台宗の密教」の意味である。この体系的に請来されて完成された東密、台密を純密(じゅんみつ)というのに対し、純密以前に断片的に請来され信仰された飛鳥時代の聖徳太子の遺品等や奈良時代に見る密教を雑密(ぞうみつ)、東大寺の大仏開眼と戒壇建立に前後する、鑑真和上から入唐八家による請来までを古密教(こみっきょう)という。
日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなった。各地の寺院・権現に伝わる山岳曼荼羅には両方の要素や浄土信仰の影響が認められる。
チベットの密教
チベット仏教は、「無上瑜伽タントラ」と呼ばれるインドの後期密教経典と、それに基づく行法を継承している。
詳細は「チベット仏教」を参照
中国の密教[編集]
中国においては、南北朝時代から、数は限られているものの、初期の密教経典が翻訳され、紹介されていた。3世紀には『華積陀羅尼神呪経』が翻訳されるなど、西域方面から伝来した仏典の中に初期の密呪経典が含まれていた。東晋の時代には格義仏教が盛んであったが、同時に降雨止雨経典などの呪術的な密典も伝訳された。これらは除災や治病といった現世利益を仏教に対し求める民衆の期待と呼応していたとも考えられる。その後、唐代に入り、インドから来朝した善無畏や中国人の弟子の一行が『大日経』の翻訳を行い、さらにインド僧の金剛智と弟子の不空(諸説あるが西域出身のインド系帰化人であったと言われる)が『金剛頂経』系密教を紹介することで、インドの代表的な純密経典が初めて伝えられた。こうして、天台教学をはじめとした中国人による仏教思想が大成した時代背景において、それ以前の現世利益的密教とは異なった、成仏を意図したインド中期密教が本格的にもたらされ、その基礎の上に中国の密教が確立し受容されるに至った。仏教を護国思想と結びつけた不空は唐の王室の帰依を得、さまざまな力を得て、中国密教の最盛期をもたらすことになった。その後、密教は武宗が大規模に行った「会昌の廃仏」の打撃を被り、円仁らが中国に留学した頃は、相応の教勢を保っていたとみられるが、唐朝の衰退とともに教勢も弱まっていった。北宋になって密教も復興し、当時の訳経僧であった施護(中国語版)はいくつかの後期密教経典も翻訳したが、見るべき発展はなかった[出 22]。以後、唐密教の伝統は歴史の表舞台からほぼ消失し、中国密教は次第に道教等と混淆しながら民間信仰化していったともみられる[出 22]。その一方で遼や西夏でも密教が行われた。殊に西夏では漢伝の密教とチベット仏教が混ざり合っていたことが残された史料から窺われる[出 23]。その後、モンゴル系の元の朝廷内ではチベット系の密教が採用され、支配者階級の間でチベット密教が流行した。漢民族王朝の明においてもラマ僧を厚遇する傾向があったが、満州民族王朝の清に至って、王室の帰依と保護によってチベット仏教は栄え、北京の雍和宮など多くのチベット仏教寺院が建立された。ただし、漢地におけるチベット仏教の存在が当時の中国人社会にどの程度の影響力を持ったかについては十分な解明がなされていない[出 24]。
密教研究者の頼富本宏は唐密教衰退後の中国密教を後期中国密教と呼び、以下の形態の密教が存在したことを想定している[出 25]。
宋代に漢訳された後期密教経典に基づく密教。この形態の密教が中国で実際に広く行われた形跡はないとされる。
密教の民間信仰化。一例として台湾や東南アジアの華人社会に今も伝わる瑜伽焔口という施餓鬼法要が挙げられる。
元朝や清朝において統治者が庇護・奨励し、主に上層階級に信仰されたチベット仏教における密教。
やがて明代になると、ヨーロッパ文化の流入により危機感を抱いた中国人らによって、各分野で西洋のルネサンスに匹敵する大がかりな復古運動が中国に起こり、民間に残されていた唐代からの密教が再編集され、中国密教の「四大法」と呼ばれる「准胝観音法」や、日本にも空海が請来した「穢跡金剛法」[40]、最澄が請来した「千手千眼観音法」、仏母部の先駆けとなる「尊勝仏母法」をはじめとする古法類が中国でも保存され、継承された。
「准胝観音法」を例に挙げると、中国で明初に刊行された版本には以下のようなものがあり、明末の資料である『准胝心要』は江戸時代の日本でも刊行されて研究された。また、中国密教(唐密)における明代や清代の資料の幾つかは、『卍蔵経』や『卍続蔵経』にも収められている。
『准胝懺願儀梵本』   呉門聖恩寺沙門弘壁
『准提集説』   瑞安林太史任増志
『准提簡易持誦法』   四明周邦台所輯
『准胝儀軌』   項謙
『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』   夏道人
この時代に特筆すべき著作としては『顕密圓通成仏心要集』がある。この著作の影響によって中国では、禅と密教を併せる「禅密双修」、浄土と密教を併せる「浄密双修」、禅と浄土を併せる「禅浄双修」[44]が急速に広まり、行なわれるようになった。そして中国仏教に見られる「中華思想」に彩られた仏教が民衆に受け入れられ、その後は世界大戦や文革による法難を経て現在に至る。
中華人民共和国では、唐代に盛んであった中期密教を唐密宗(唐密:タンミィ)または漢伝密教(漢密)、現代まで続くチベット仏教(蔵伝仏教)におけるチベット密教がある。前者は清代以降の禅や浄土教の台頭、現世利益や呪術の面でライバルであった道教に押されて中国では衰退・途絶した。文化大革命以後の中国大陸では、漢人の間でもチベット密教(蔵密)が流行し[45]、日本密教(東密)の逆輸入も行われた[出 26]。上海市の静安寺にみられるように日本の真言宗(東密)との交流を通じて唐密宗の復興を試みる新しい動きもある。また、チベット密教はチベット動乱や、特に文革期に激烈であった中国共産党による宗教弾圧を乗り越えて、チベット自治区やチベット人を中心に現在もチベット密教の信仰が続いている。

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